2012/10/25

科学の魅力を伝えるということ


Science is Fun / West Point Public Affairs

私の大学院修士時代は、教科教育(理科教育)の専攻に籍を置き、
高校現場から内地留学していた教師たちと机を並べていた。
ブログタイトルは、当時書いていたScience Educationについて綴った
HTML日記に由来している。

この数日の連続投稿は、今年に入って思い立って始まった
修士時代の恩師とのe-mail往復書簡の内容を抜粋している。

恩師からは、修士論文(計算量子化学)の薫陶だけでなく、
科学教育とその哲学について、いまも第一級の助言と示唆を受け続けている。


魅力を伝える米国の姿

理系の子 高校生科学オリンピックの青春
(ジュディ・ダットン、文藝春秋)を手に取った。
自然科学の魅力を高校生に伝える、初等中等教育の理科教師、 大人の、
子供たちに期待をかけ信じる役割の大きさと
高校生たちのポテンシャルの高さに感動が止まない。

一方でかつて、小学校における理数系教育の、崩壊にも似た現象を聞いた「事件」が
私の使命感の発端であるのではないか、と、回想した。

小学校理科の現状(10年前)は?(日本)

ある県の中学・高校教員の採用試験を目指していた10年前、
高校での教育実習を終えて大学に戻る間際、「小学理科教師を目指す気はないか」と
中学校時代の数学の恩師に請われた。
初等教育の現場で教員の数とその資質が 長い間、厳しい状況にあるというのである。

小学校理科の実験でのひとつのエピソード。
乾電池が並列接続、直列接続された電球のどちらが 明るく輝くか、という単元で
それは起こった。

通常、乾電池を直列につないだ電球が明るく輝くはずである。
しかし、あるグループでは、並列のつないだものの方が明るくなった。

教師はそれが何故起こったのか、現象から理由を説明することが全くできず、
教室は混乱したそうである。

私なりに2点の問題点を指摘した。
・予備実験をせず、指導書通りに実験を行ったこと
・理科(自然科学)の専門教育を受けていない理科教師の資質の問題
 (なぜ? その現象が起こったか、本質を見いだせなかった)

原因は、 乾電池の寿命によって、起電力が弱まっていたために
並列つなぎで、安定した(寿命の長い)電球の輝きが得られた、
ということのようである。

私に理科教員の道を導いた、この中学数学の恩師は
地元で中学校の校長までされていて、この3月に退職された。

終業式前のギリギリのタイミングで、急に思い立ち、
小中学校での理数系教育の現状をヒアリングに伺ってきたのだが
学力向上以前に、(私の田舎であっても)地域の教育力が落ちて
個人主義に陥ってしまい、文理を問わず「自分の世界」と関係のない学問から
離れていくといった知離れが進んでいるようだった。

県指定の「学力向上プロジェクト校」を進めていた矢先だったが
結局は、知識だけでなく「対話力の向上」を指向し、
新聞記事や書籍をもとにした生徒間での対話と学びを全面に打ち出した
能動的学習に取り組まれていたのである。


大学に何ができるのか

大学リメディアル教育の現場で、初年次大学生の生物・化学的知識を補うにあたって
学習指導要領の変化だけでなく、実際の授業を見にいかねばと
一昨年から、高校への生物・化学授業の見学を始めている。

私立大学の入試制度で入る学生は、一般に、学校長推薦入試やAO入試で
入学をする割合が多い。保健系の領域で考えれば、
・化学的な知識を一部必要とする、生理学などの医学科目
・物理学の知識が必須である、運動学などの専門科目
などの学びに支障を来たす恐れがあり、かつ
中退者・進路変更者を生み出す遠因となっているため
大学改革と一体的に見る必要性を感じて行動する必要性が、ここに見出せる。

特に私大と、小中高の理科問題との接続・連携には、
切実な危機感が芽生えるべきなのであるが、どうであろうか。

文系出身の学生(一般市民と考えてよい)に理数系の知識と考え方を伝える、
という意味で理科教育・科学教育・教育学の意義や役割がある。
かつて修士時代に学んだ「理科教育学」「教育社会学」に、
現場の実践を通して再会したことは
偶然か必然か、この数か月は驚きと再発見の連続であり、
「気づいた者」の責任を背負い、行動するための原動力になっている。

参考:

1. 理科の「教科担任制」、小学校でも約3割に。小学校教員の6割以上が「理科が苦手」!?(Benesse, 2012.2.27)

※一部は、教育誌に投稿準備中。
 

2012/10/24

学生に求める能力、教師に求められる能力


Literacy mountain / dougbelshaw


 「機能別分化」とも呼ばれる大学の役割は、
研究か教育か、地域に根差すかグローバルか、
といった観点から いくつかの類型が提案されている。

アメリカのように
コミュニティ・カレッジが門戸を広く学習機会を保障・保証し
自立した成人を世に送り出すような、大学像が求められているのかもしれない。

また、高等学校までの初等中等教育(第一、第二段階の教育)からの接続として
小中高大の連携に真剣に取り組む「覚悟」が、すべての学校種の教師に求められる。

学生に力をつけさせるために必要な教育の在り様について、
私たちは、現場の声を社会に広く訴える必要もあろう。

ティーチング・マシンやCAIの出現の時期に、沼野一男さんという
教育工学者が情報化社会と教師の仕事(1986年、国土社)に 述べている。
(参考:KogoLab 沼野一男『情報化社会と教師の仕事』
26年後の今も、決して色あせてはいない。
・・・子どもたちのために学校や教師は何をしなければならないのか。 この問いは、一人ひとりの教師がその教育観あるいは人間観に基づいて答えるべき問いである。しかし、その答は単なる理想や新年の表明であってはならない。少なくとも子どもたちの学習指導に意欲を持ち、そのための努力を惜しまない多くの教師に、現実に期待できるもので なければならないだろう。
同時期に、学生に求める能力は「読み書き問う力」と定義づけされており
これは、主体的・能動的な学修のための力でもある。

学生のポテンシャルをできうる限りの愛情によって期待し、その学習効果を確認し、
確かな力を持たせて卒業させ、卒後の活躍を支援するために
(偶然ではなく)意図的に、仕掛け・仕組みを配置していきたい。

2012/10/23

なぜFD活動が必要なのか


Increasing Productivity in Writing and Publishing / Editor B

FD活動には駆動力がない?

大学教授・講師には、教育に必要な免許資格がない。
このことは、研究活動に向かわせる動機にしか教員研修のインセンティブが
働かないことを意味している。

佐藤浩章氏(愛媛大学)が継続的に指摘している[1]ことに、
FD活動の実質化と、FD推進の専門職員の育成(Faculty Developer = FDer)がある。
FD」自体が古い概念[2]となり、
Professional Development(PD)が進んでいる国外では、
米国型(入職前型PD)、欧州型(初期型PD)のように、
大学教授の資格として早期の研修が組まれており、
専門のネットワークと組織が大学間と大学内に設置されている。
米国では、200人に1人の専門職員の配置が望ましいとされている。

では、日本型(生涯継続型PD)の問題点はどこにあるのか。
インセンティブが働かない原因の一つでもあるが、いったん職を得た後では、
いくらDevelopmentの必要性を叫ぼうとも、教員の研修動機は上がらない。

学修(学習)観の転換という論点を超えて

先般の中教審答申の内容が熟議され、教職員・学生・ステークホルダーの間で
内容教授から主体的/能動的学修への転換に、総意を得たという前提から始める。
大学では、教育課程=カリキュラムを定めており、
このことは「教員が」一定の内容を「学生へ」伝える義務を負うことを意味している。
カリキュラム編成を主導するのが、自分であれ内外の組織であれ、
伝達すること「のみ」が学習者側の知識獲得へと結実するのだろうか?

知識獲得を超えて、個々の学生の意識と行動の変容へと「確実に」結びつけ、
社会に送り出すことが、大学の責務であるという理念を、我々は持ち実行したいと希望している。

最近では、この責任感を「学士課程教育の質保証」と呼んでいる、
学士力(文科省)・社会人基礎力(経産省)・キーコンピテンシー(OECD)という能力群、
これらは我々が学生に求める最低限度の学位授与の基準である。

大学として、当たり前のことを果たす。
社会資源と時間を投じて、我々が学生と作り上げている学びの時空間の意味とは、何か。
建学の理念と教育目標を、改めて問い直し、教員と学生の相互の行動達成目標として、
誰にでも見える形で書き出し、適切な時点で評価・確認しながら進んでいく歩みを止めてはならない。

学修成果の確認のために必要とするPD活動は、
教員と学生とこれを取り巻く「場」としてのシステムの改革でもある。
これを支援する熱意と能力を持つ教職スタッフを増やし、
賛同者を得ながら組織的改革を推進する現在が、
5年後の大学の有り様を規定することになる。

考えうる方法論、アプローチ

  • 建学の理念、設立の理念
  • 3つのポリシー(入学生受入・教育課程編成・学位授与)
  • カリキュラムマップ(科目間の系統的な連携)
  • シラバス(教育目標の設定、授業デザイン、成績評価)
  • 相互研修、同僚評価、公開授業
  • ティーチング・ポートフォリオ(教員のリフレクション)
  • 達成度確認のためのルーブリック
  • 教育方法=授業デザインのあり方
  • POD(Professional Organizational Development Network in Higher Education)に倣う:主に北米の1600名の会員からなるFDに従事する機関および実務家のための研究会

参考文献・注

  1. 佐藤浩章, 日本におけるFD論の批判的検討(Critical Review of Discussions on Faculty Development in Japan), 大学教育学会誌, 第34巻(第1号), 80-88 (2012). [link
  2. 佐藤(2012)では、日本型FDの拡張として、2大学の事例を上げている。立命館大学「建学の精神と教学理念を踏まえ,学部・研究科・他教学機関が掲げる理念と教育目標を実現するために,カリキュラムや個々の授業についての配置・内容・方法・教材・評価等の適切性に関して,教員が職員と協働し,学生の参画を得て,組織的な研究・研修を推進するとともに,それらの取組の妥当性,有効性について継続的に検証を行い,さらなる改善に活かしていく活動」、愛媛大学「教育・学習効果を最大限に高めることを目指した,授業・教授法の改善(ミクロ・レベル)カリキュラムの改善(ミドル・レベル)組織の整備・改革(マクロ・レベル)への組織的な取組」であり、個々の授業改善だけでない包括的な枠組みを捉え直す試みである。(下線は筆者による)

2012/10/22

転換期の大学教育


You must be the change ... / Tim Green aka atoach

同名の総合テーマで開催された、大学教育学会に参加してから5ヶ月、
大学教育の質的改革の重要性は日に日に増している。

私は、いま目の前にいる学生の支援にあたる「教育」と
大学教育の在り方から教育哲学までの枠組みを再構築する「教育」とが
一致して、同時に捉えるような見方を持つようになっている。
ミクロとマクロを同時に串刺す視座に立つことは、
現場と全体、いまと近い将来、現実と理想をつなげる
試みであるようにも思う。

平成24年3月中教審答申まとめ、続く、6月大学教育改革実行プラン
8月中教審答申の流れに刺激されて、私に渦巻いていた大学教育開発に柱が見えてきた。
リメディアル教育、初年次教育、アクティブラーニング、教育評価、学生相談、高大接続、学部IRと取り組みを始めてきて、希望の光が見えつつある。

多様な視点から、多くの教職員が多方面から学生に光を当てることで、
よりいっそう学生たちの可能性は光り輝くのである。