(c) jazzman|ストックフォト PIXTA
冬の課題図書として、新書をいくつか手に取った。
システムとしての学びの「場」の創出という、環境整備面に注目することも重要ではあるが
学生に何を学ばせ、学生を成長させるかは、1回1回の授業の積み重ねに鍵がある。
(佐藤浩章(2008)によれば、ミクロ・レベルFD=授業・教授法の改善という。)
システム・環境整備にあたるのは、ミドル・レベル=カリキュラム、マクロ・レベル=組織
という括りになるのかもしれない。
大塚英志の論考・エッセイは、自身が徒弟で身につけた民俗学の教育方法論を、創作を学ぶ大学生に適用した教師体験を語っていて、ぐっと腑に落ちるポイントがある。
授業評価・授業改善からの視点ではない。
いかに学生を伸ばすかに視点を置いている点で、共感できる事例が提供されているし、大塚の教育への情熱は、師から弟子へ受け継がれていく軸に沿っていて、大学教育の原点に立ち返らせてくれる。
私自身、少しの回り道をしながら(しかし社会人経験も経ないままに)いつのまにか教える立場に立っていて、系統的な教育方法を持っているとは思えない。自分の受けてきた被教育経験と、目前の学生の反応と、いま身近にいる上司たちを理想の教師モデルとしながら日々格闘している。
筑波大学人文学類の雰囲気と、柳田國男直系の千葉徳爾の教えをまとった大塚は、師を慕う思いと、弟子たる学生への慈愛をもって(ただし、大学期だけの師弟関係)、方法論の継承と洗練を、教育の中心に持ってきている。
師が「教える」ことは、答えを伝えることではない。
考え方の方法であって、その方法でさえ、多読の追体験と自学から「学ばせる」という柳田と千葉のエピソードは熱い。柳田が得た「神は細部に宿る」という方法論は、千葉・大塚へ受け継がれた。大塚から現在授けられている方法論(大学教育の成果物にあたると思う)について、さらに次のように付け加える。
いつかどこかで役に立つ。
何故、それでいけないのか。何故、教える側がそう自信を持って言ってはいけないのか、と思う。
我々は、教えすぎていないか。学生の手を取りすぎていないか。
評価の波にさらされて、学内行政の増大という重圧にかまけて、学問をおろそかにしていないか。
学生から目を背けていないか。
自戒しか浮かばないが、学生の4年後に対する責任を、我々(大学教育に関わる者)は現実に負っていることを忘れてはいけない。
評価の波にさらされて、学内行政の増大という重圧にかまけて、学問をおろそかにしていないか。
学生から目を背けていないか。
自戒しか浮かばないが、学生の4年後に対する責任を、我々(大学教育に関わる者)は現実に負っていることを忘れてはいけない。