2011/12/28

いかに成長させるか

大学卒業 - 写真素材
(c) jazzmanストックフォト PIXTA

冬の課題図書として、新書をいくつか手に取った。

システムとしての学びの「場」の創出という、環境整備面に注目することも重要ではあるが
学生に何を学ばせ、学生を成長させるかは、1回1回の授業の積み重ねに鍵がある。
(佐藤浩章(2008)によれば、ミクロ・レベルFD=授業・教授法の改善という。)

システム・環境整備にあたるのは、ミドル・レベル=カリキュラム、マクロ・レベル=組織
という括りになるのかもしれない。

大塚英志の論考・エッセイは、自身が徒弟で身につけた民俗学の教育方法論を、創作を学ぶ大学生に適用した教師体験を語っていて、ぐっと腑に落ちるポイントがある。

授業評価・授業改善からの視点ではない。

いかに学生を伸ばすかに視点を置いている点で、共感できる事例が提供されているし、大塚の教育への情熱は、師から弟子へ受け継がれていく軸に沿っていて、大学教育の原点に立ち返らせてくれる。

私自身、少しの回り道をしながら(しかし社会人経験も経ないままに)いつのまにか教える立場に立っていて、系統的な教育方法を持っているとは思えない。自分の受けてきた被教育経験と、目前の学生の反応と、いま身近にいる上司たちを理想の教師モデルとしながら日々格闘している。

筑波大学人文学類の雰囲気と、柳田國男直系の千葉徳爾の教えをまとった大塚は、師を慕う思いと、弟子たる学生への慈愛をもって(ただし、大学期だけの師弟関係)、方法論の継承と洗練を、教育の中心に持ってきている。

師が「教える」ことは、答えを伝えることではない。
考え方の方法であって、その方法でさえ、多読の追体験と自学から「学ばせる」という柳田と千葉のエピソードは熱い。柳田が得た「神は細部に宿る」という方法論は、千葉・大塚へ受け継がれた。大塚から現在授けられている方法論(大学教育の成果物にあたると思う)について、さらに次のように付け加える。
いつかどこかで役に立つ。 
何故、それでいけないのか。何故、教える側がそう自信を持って言ってはいけないのか、と思う。 
我々は、教えすぎていないか。学生の手を取りすぎていないか。
評価の波にさらされて、学内行政の増大という重圧にかまけて、学問をおろそかにしていないか。
学生から目を背けていないか。

自戒しか浮かばないが、学生の4年後に対する責任を、我々(大学教育に関わる者)は現実に負っていることを忘れてはいけない。

2011/12/16

システム・場としての「学校」


市川学園旧校舎 / naosuke ii

学校は、一見不確実な経験則によって生み出された、効率的で確実な教育システムである。

みんなで歩いて思索する、ギリシアの思想家たちが営んできた学びのシステムから
本質的な変化がないと考える。
学校のはじまりは、もっともっと遡る必要があるかもしれない。

人間は歴史的に、
・生徒をひとつの場に集めて
・教師が
・未知で、将来役に立つかもしれないと思う知識(教科)の学習を
するという「学校」が、
高効率に人間を育てることができることを発見したのかもしれない。

学校で学んだ知識(=学校知)は、必ずしも実社会で役に立つとは限らないが
学びのプロセス、問題解決を通して、読み書き算盤といったリテラシーが
自然と身に付く。

学問は、何かきっと役に立ち、自分の将来を明るくすると思わせること、
生徒が教師に対して絶対の信頼を置いていること、
学校が社会から一定の距離を保って理想的な社会を形成していること、
青年期を、なるべく漠然とした将来への期待と不安に包まれた時間として過ごさせること。

修士課程の教育社会学(門脇厚司先生)で、メリトクラシーを中心に
入試制度が果たしてきた加熱と冷却が、安定して社会に人材を出してきた背景を学んだ。

これから学生に向き合う中で、社会に出るまでに何を学び取り成長していけるか、
教育社会学の知見も得ながら、授業実践を進めていきたい。


2011/10/22

教育評価と学習成果


285/365 Relief / thebarrowboy


最近、興味を持っていることの一つに
「成績のつけ方」がある。
いかにして学生の学びを評価するのか、我々は何を学生に与えられたかを問うことでもある。

教育とは、教員(教える)と学生(教わる)の間で行われるやり取りの総体である。

教えることは、一方的な教授(教え授ける)であっていいのか、
教わることは、受動的な受講で教わり授けられる状況でいいのか。

学習成果の効果測定は、重要なことではあるけれど
教育とは、教師が学び探求したことの成果物を、
学生と共有して初めて生じる気付きの連続であり、
互いに学び合うプロセスなのではないか、と考える。

「学び」は、学生が何を為し何を考えたかということから生じるものであって
学生が為したこと考えたことそのものだけではない。
教師は、学生が学ぶための行動に影響を与えることによってのみ、
学びを進めさせることができる。(ハーバート・A・サイモン, 2001)

2011/06/05

授業というドラマ


lecture room / Sean MacEntee


授業はドラマである。

授業において、感情が揺さぶられ発見の喜びが湧き上がる体験を
学生自身が能動的に獲得するために、我々はあらゆる手段を講じなければならない。


・双方向性のための仕掛け(クリッカー、コンベンショナルな発問技法、教師のパーソナリティ)
・学生間の相互作用(ピア・インタラクション)
・授業研究と教育方法研究
・学習心理学の理解と実践的活用
 (教師期待効果!、教育評価、学生の心理の理解)

FD=ファカルティ・ディベロップメントの形骸化・形式化から抜けるために、実質的・実践的活動に踏み出すことが求められている。