2011/12/16

システム・場としての「学校」


市川学園旧校舎 / naosuke ii

学校は、一見不確実な経験則によって生み出された、効率的で確実な教育システムである。

みんなで歩いて思索する、ギリシアの思想家たちが営んできた学びのシステムから
本質的な変化がないと考える。
学校のはじまりは、もっともっと遡る必要があるかもしれない。

人間は歴史的に、
・生徒をひとつの場に集めて
・教師が
・未知で、将来役に立つかもしれないと思う知識(教科)の学習を
するという「学校」が、
高効率に人間を育てることができることを発見したのかもしれない。

学校で学んだ知識(=学校知)は、必ずしも実社会で役に立つとは限らないが
学びのプロセス、問題解決を通して、読み書き算盤といったリテラシーが
自然と身に付く。

学問は、何かきっと役に立ち、自分の将来を明るくすると思わせること、
生徒が教師に対して絶対の信頼を置いていること、
学校が社会から一定の距離を保って理想的な社会を形成していること、
青年期を、なるべく漠然とした将来への期待と不安に包まれた時間として過ごさせること。

修士課程の教育社会学(門脇厚司先生)で、メリトクラシーを中心に
入試制度が果たしてきた加熱と冷却が、安定して社会に人材を出してきた背景を学んだ。

これから学生に向き合う中で、社会に出るまでに何を学び取り成長していけるか、
教育社会学の知見も得ながら、授業実践を進めていきたい。


2 件のコメント:

kimi さんのコメント...

「学校知システム」は、実利に直結する(いわゆる役に立つ知識や技術)から解放されるところにポイントがあるのかもしれません。

kimi さんのコメント...

デューイの大学論、大学機能分化・学力論についての日本労働研究雑誌の特集号を読み進めていますが、
実利(社会)と切り離せるかどうか、
ハイパー・メリトクラシーやキー・コンピテンシーを読み解かないといけないように考えます。