内なる教育哲学と対話をしながら、学生とじっくり向き合う時間を取ろう、と思ってきた。
先日、NHK「“救国”の大学論 2014」の冒頭の議論が、インパクトが強くて
同世代の論客たち(中室牧子、山崎大祐、横田幸信、与那覇潤)の熱に、ぐっとくるものがあった。
近刊で、似たような熱を帯びているもの、
大学改革のアクターの友情のようなものに出会うことがある。
大学改革のアクターの友情のようなものに出会うことがある。
・無名大学を優良大学にする力 (学文社)
・FDガイドブック―大学教員の能力開発 (玉川大学出版部)
は、単なる評論、批評ではない実践の記録であろう。
学生の成長する奇跡を目撃してしまったとき、私たち(教師)は、自分の力が微力であることを自覚し自戒しながらも、教育の光を、可能性を見てしまう。無力感から生じる深い絶望の淵からであっても、もう一度、何度でも立ち上がる力を、子どもたちから受け取れるのである。
— kimmy (@kimikazu) 2013, 9月 20
学生の可能性を信じた瞬間から、後戻りできない自分がいる。気づいてしまった者の責任と正義を負っていると感じる。一方、研究は、同じような想いでいただろう恩師から受け取ったバトンである。魂を研ぎすまし学問の徒として向かうことは、私たち(研究者)に投じられた教育資源を社会に返す使命である
— kimmy (@kimikazu) 2013, 9月 20
教育と研究、どちらにも通じる芸術性は、自らの中に本物を見つけようとする、自分との孤独な対話の連続と繰り返しから削りだされる。ひたすら孤独である。ただし、絶望ではない。孤立ではない。心が折れそうになっても、自らの中にいる本物の教育者(正義)と研究者(使命)を、問いかける。
— kimmy (@kimikazu) 2013, 9月 20
過去のツイートで、「正義」と「使命」という表現で大学の意義、二項対立を超える光、学生の可能性を自問自答していたことをふと思い出した。
追記:
東洋経済オンライン ニッポンの大学の”ジレンマ”とは 古市憲寿×吉見俊哉対談
(上) http://toyokeizai.net/articles/-/36010
(下) http://toyokeizai.net/articles/-/36132
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