2012/10/22

転換期の大学教育


You must be the change ... / Tim Green aka atoach

同名の総合テーマで開催された、大学教育学会に参加してから5ヶ月、
大学教育の質的改革の重要性は日に日に増している。

私は、いま目の前にいる学生の支援にあたる「教育」と
大学教育の在り方から教育哲学までの枠組みを再構築する「教育」とが
一致して、同時に捉えるような見方を持つようになっている。
ミクロとマクロを同時に串刺す視座に立つことは、
現場と全体、いまと近い将来、現実と理想をつなげる
試みであるようにも思う。

平成24年3月中教審答申まとめ、続く、6月大学教育改革実行プラン
8月中教審答申の流れに刺激されて、私に渦巻いていた大学教育開発に柱が見えてきた。
リメディアル教育、初年次教育、アクティブラーニング、教育評価、学生相談、高大接続、学部IRと取り組みを始めてきて、希望の光が見えつつある。

多様な視点から、多くの教職員が多方面から学生に光を当てることで、
よりいっそう学生たちの可能性は光り輝くのである。
 

2012/04/08

初等・中等教育における学びの評価、教育とは何か

plato, aristoteles, socrates

大学で初年次教育にあたっていると、入学前に身につけてほしいと考える我々の想定の範囲と現実の学生の持っているスキルのギャップに驚くことが多い。大学側の問題と、入学前までの彼ら学生の教育歴の問題に分けて、その問題の分析と対策に進む必要があると思う。


大学
・入り口=入試の問題:入試制度の多様化と入試で測るべき能力の分析不足
・大学での教育内容=学生の質的変化に教育目標、教育内容が十分対応できていない
・出口=卒業までに身につけさせる知識、技能、態度が明確でない
→ポリシーの策定と実質化というキーワードに収束する。
入学以前
・進路指導の問題:偏差値偏重、就職に向けたキャリア観の醸成の不足や不一致
・義務教育までの知識、技能の獲得が十分ではない
・個性に応じた学習支援が十分ではない(発達障害とそのグレーゾーンを含む)

この現状に対して、教員レベルでの教授意識と教授能力の開発によって、その幾ばくかは対応ができると信じている。が、学生は義務教育課程を通過点としているから、大学教員は高等学校教員および小・中学校教員の持っている問題意識を共有し、その教育スキルに授業開発のヒントを見出せるのではないだろうか。

この春を利用して、師を頼って小中学校へのヒアリングへ伺った。
はじめに私が抱いていた課題は次の通り。
・中学校での学力(学習能力、理数系スキル)の担保はできているか
・小学校でのジェネリックスキルの担保はできているか
・発達障害を持つ児童・生徒への早期支援はできているか

未だまとめている途上だが、感触として得たものは
・児童、生徒の人間関係のリンケージは徐々に狭くなっている。他者への興味関心が薄れており自分の世界と父母、祖父母の世界との重なりは小さい。地域社会の教育力は確実に落ちてきている。
・幼保・小、小・中学校の連携は可能だが、高等学校との連携は困難である。その体質の違いが、問題意識の共有を大きく阻んでいる。
といった、家庭や地域に由来する変化の予兆である。後者については高等学校へのヒアリングを続けて現状把握を進めたい。


教育は「哲学」である。
教育とは「人間形成」である。


私自身が救われたのは、教科を教えることだけが教育の本質ではないこと、を教えられたことである。(教科を通して、学生の成長を促す、という意味で。)
学生が悩む様子に無力感を抱き、「教育成果をテストだけで測る」ことの違和感に苛まれる毎日を救ってくれるのは、人間への愛情を持って接する先生方の、姿と言葉であるように思う。

※一部を加筆・修正し、教育誌に発表しました。

2011/12/28

いかに成長させるか

大学卒業 - 写真素材
(c) jazzmanストックフォト PIXTA

冬の課題図書として、新書をいくつか手に取った。

システムとしての学びの「場」の創出という、環境整備面に注目することも重要ではあるが
学生に何を学ばせ、学生を成長させるかは、1回1回の授業の積み重ねに鍵がある。
(佐藤浩章(2008)によれば、ミクロ・レベルFD=授業・教授法の改善という。)

システム・環境整備にあたるのは、ミドル・レベル=カリキュラム、マクロ・レベル=組織
という括りになるのかもしれない。

大塚英志の論考・エッセイは、自身が徒弟で身につけた民俗学の教育方法論を、創作を学ぶ大学生に適用した教師体験を語っていて、ぐっと腑に落ちるポイントがある。

授業評価・授業改善からの視点ではない。

いかに学生を伸ばすかに視点を置いている点で、共感できる事例が提供されているし、大塚の教育への情熱は、師から弟子へ受け継がれていく軸に沿っていて、大学教育の原点に立ち返らせてくれる。

私自身、少しの回り道をしながら(しかし社会人経験も経ないままに)いつのまにか教える立場に立っていて、系統的な教育方法を持っているとは思えない。自分の受けてきた被教育経験と、目前の学生の反応と、いま身近にいる上司たちを理想の教師モデルとしながら日々格闘している。

筑波大学人文学類の雰囲気と、柳田國男直系の千葉徳爾の教えをまとった大塚は、師を慕う思いと、弟子たる学生への慈愛をもって(ただし、大学期だけの師弟関係)、方法論の継承と洗練を、教育の中心に持ってきている。

師が「教える」ことは、答えを伝えることではない。
考え方の方法であって、その方法でさえ、多読の追体験と自学から「学ばせる」という柳田と千葉のエピソードは熱い。柳田が得た「神は細部に宿る」という方法論は、千葉・大塚へ受け継がれた。大塚から現在授けられている方法論(大学教育の成果物にあたると思う)について、さらに次のように付け加える。
いつかどこかで役に立つ。 
何故、それでいけないのか。何故、教える側がそう自信を持って言ってはいけないのか、と思う。 
我々は、教えすぎていないか。学生の手を取りすぎていないか。
評価の波にさらされて、学内行政の増大という重圧にかまけて、学問をおろそかにしていないか。
学生から目を背けていないか。

自戒しか浮かばないが、学生の4年後に対する責任を、我々(大学教育に関わる者)は現実に負っていることを忘れてはいけない。

2011/12/16

システム・場としての「学校」


市川学園旧校舎 / naosuke ii

学校は、一見不確実な経験則によって生み出された、効率的で確実な教育システムである。

みんなで歩いて思索する、ギリシアの思想家たちが営んできた学びのシステムから
本質的な変化がないと考える。
学校のはじまりは、もっともっと遡る必要があるかもしれない。

人間は歴史的に、
・生徒をひとつの場に集めて
・教師が
・未知で、将来役に立つかもしれないと思う知識(教科)の学習を
するという「学校」が、
高効率に人間を育てることができることを発見したのかもしれない。

学校で学んだ知識(=学校知)は、必ずしも実社会で役に立つとは限らないが
学びのプロセス、問題解決を通して、読み書き算盤といったリテラシーが
自然と身に付く。

学問は、何かきっと役に立ち、自分の将来を明るくすると思わせること、
生徒が教師に対して絶対の信頼を置いていること、
学校が社会から一定の距離を保って理想的な社会を形成していること、
青年期を、なるべく漠然とした将来への期待と不安に包まれた時間として過ごさせること。

修士課程の教育社会学(門脇厚司先生)で、メリトクラシーを中心に
入試制度が果たしてきた加熱と冷却が、安定して社会に人材を出してきた背景を学んだ。

これから学生に向き合う中で、社会に出るまでに何を学び取り成長していけるか、
教育社会学の知見も得ながら、授業実践を進めていきたい。


2011/10/22

教育評価と学習成果


285/365 Relief / thebarrowboy


最近、興味を持っていることの一つに
「成績のつけ方」がある。
いかにして学生の学びを評価するのか、我々は何を学生に与えられたかを問うことでもある。

教育とは、教員(教える)と学生(教わる)の間で行われるやり取りの総体である。

教えることは、一方的な教授(教え授ける)であっていいのか、
教わることは、受動的な受講で教わり授けられる状況でいいのか。

学習成果の効果測定は、重要なことではあるけれど
教育とは、教師が学び探求したことの成果物を、
学生と共有して初めて生じる気付きの連続であり、
互いに学び合うプロセスなのではないか、と考える。

「学び」は、学生が何を為し何を考えたかということから生じるものであって
学生が為したこと考えたことそのものだけではない。
教師は、学生が学ぶための行動に影響を与えることによってのみ、
学びを進めさせることができる。(ハーバート・A・サイモン, 2001)