2013/05/13

5/14セミナーご案内:授業におけるわかりやすい説明とは?―認知心理学から考える―


金沢大学 大学教育開発・支援センター
第10回FD研究会・第11回評価システム研究会 合同開催

日時:5月14日(火)16時30分~18時00分
場所:金沢大学角間キャンパス総合教育1号館2階大会議室
テーマ:「授業におけるわかりやすい説明とは?―認知心理学から考える―」
報告者:島田英昭(信州大学教育学部・准教授)

趣旨:「授業におけるわかりやすい説明」が求められているが、どのようにすればそれを実現できるのか、手がかりがつかめないという声がある。今回は、認知心理学を手がかりに、学生の頭の中で行われている情報処理のプロセスを明らかにして、わかりやすさについて考えてみたい。具体的には、情報処理の容量限界、既有知識の影響、知覚的特性について、簡単な心理実験のデモンストレーションをしながら説明し、議論する。



2013/03/05

rung of a ladder ハシゴの格(こ)


up and down the ladder / Robert Couse-Baker

 (大学における)教育とは、何か? 学びとは、何か?

 初等・中等教育で実践にあたっておられる先生方の知恵を借りながら
これからの「小中高大連携」を模索したい。
すべての学校種で立ち上がっている、子どもたちの学びに連続性を持たせることを
議論し実践する段階に、私たちは並んでいるように思う。

教師にとっての大学教育とは何かを、位置づけるとき
濱名篤・山田礼子らの言う「初年次教育」の視点はヒントになる。
(たとえばJASSO「大学と学生」2008年5月号の特集 文献1,2 に詳しい。)

しかし、教師自身が受けてきた小中高大での教育がどのようなものであったのか、
矯正や訓練の思想、または受験戦争のもとで知識偏重であったような
一方通行の講義形式に依っていたのならば
大学と学生の現在置かれている状況への対応は、困難を極める。

さらに、教育か研究かの二元論で論じることでもなく、
故マーティン・トロウの提唱したエリート→マス→ユニバーサルの
大学モデルでいうところの最終段階に、
いま、まさに到達していることを自覚しなくてはならないだろう。

では、私たちは教育とその哲学をどこに位置付けたらよいのであろうか。

大学教育におけるリメディアル教育・初年次教育・学修支援の位置づけ

これまでの大学では、選抜された学生(トロウモデルでのエリート段階)に対し、
対等あるいは師弟関係を基盤にした「徒弟的」関係の中で
教育・研究が展開されてきた。
現状あるいは今後は、多様な質と能力の学生を受け入れる
マス~ユニバーサル段階の移行期にある。

「学生のなりたい姿」を見出し、学習を支援する第一歩に大学初年次における
導入教育と学修支援が位置付けられる。

教育の梯子

いま、上ろうとするハシゴがある。
ただし、最初の何段かが抜けていることに学生は気付かない。

「懸垂」のような状態でもがいている彼らに、知識・技術・行動としての適切な
ハシゴの格(こ)を入れ、学び方(上り方)を共に探し、
そして彼ら自身が主体的に高みを目指すことを援助、支援したい。

参考文献

1. 濱名篤、初年次教育の必要性と可能性、大学と教育、2008 (pdf)
2. 山田礼子、初年次教育の歴史と理論、大学と教育、2008 (pdf)
3. 山本以和子、大学から見た『大学改革の概説』、ベネッセ教育研究開発センター、2002

2013/02/08

魔法の言葉


I believe in you / ckubber
 

学生の「主体的・能動的な学び」が、大学改革のバズワードとなっている。
アクティブ・ラーニングとも総称されている。

今度は、小学校時代の恩師を訪ね、初等教育の現場と
生活科・社会科・総合的な学習の時間での実践を追いかけた。
(ただし、具体的な事例は詳細に述べない)

主体的な学びとは

主体的な学びを進めるには、こどもの力を信じること、
教員が教科(指導要領)の枠内ではない、本物(学問と文化)を知り伝える、
努力を惜しまないことにあると考える。
教師も、児童・生徒・学生と同じく、学究の徒として学び続ける力を持つこと。

小学校「歴史」と総合的な学習の時間の教育実践では、
実社会に近い課題設定をした重点単元で、調べ学習を行った結果
「生徒が教師を追い抜く」生徒の成長する姿が現れたという。
科学教育の用語での「真正の評価」であり、教師のファシリテーションの成果、
ピア・インストラクションの実例でもある。

これが、10年前に小学校で実現されてきた
主体的に学ぶ教室のイメージだとすれば、
大学教育でのアクティブ・ラーニングのスタートは、あまりに遅い。

魔法の言葉を持つ

私の授業を振り返ってみる。
授業冒頭には発問し、一人ひとりに「問い」を投げかける。
言葉にならなければ、彼らの私語を頻繁に拾い上げて、生まれた気づきに
「素晴らしい」
「よく考えているね」
と応答することを繰り返す。

大人数講義でも1対1の関係を成立させる魔法の言葉は、
彼ら学生の学びへの敬意を表明することであり、彼らの善なる意図を肯定することだ、
と信じる。

教授から学修へ、ラーニング・パラダイムの転換期に我々は立っている。

教室の創造、大学の創造

「『学生』の将来なりたい自分」を主語に、これを支援し導き、
4年間の一人ひとりのサクセスストーリーをつくる「場」を
活きたシステムとしてつくりたい。つくらねばならない。

そのモデルの基礎と教育哲学を持ち得る1つの方法は、
小中高大の恩師と私のストーリーを言語化し一般化する試みではないかと
考える。
自らが受けてきたスーパービジョンの振り返りに、さらに加わるのは、
私が支援にあたって卒業していった学生一人ひとりのストーリーである。

学生が変われば、自ずと教育の質に向き合うという
自生的な教育力が、すべての大学に備わっていることを心から願う。

関連

1. 青野透、アクティブ・ラーニングのためのアクティブ・ティーチング、金沢大学大学教育開発・支援センター・センターニュース No.438、2013
... 加えるならば、能動的な学びのための、アクティブ・エデュケーションが求められると考えます。

2012/10/25

科学の魅力を伝えるということ


Science is Fun / West Point Public Affairs

私の大学院修士時代は、教科教育(理科教育)の専攻に籍を置き、
高校現場から内地留学していた教師たちと机を並べていた。
ブログタイトルは、当時書いていたScience Educationについて綴った
HTML日記に由来している。

この数日の連続投稿は、今年に入って思い立って始まった
修士時代の恩師とのe-mail往復書簡の内容を抜粋している。

恩師からは、修士論文(計算量子化学)の薫陶だけでなく、
科学教育とその哲学について、いまも第一級の助言と示唆を受け続けている。


魅力を伝える米国の姿

理系の子 高校生科学オリンピックの青春
(ジュディ・ダットン、文藝春秋)を手に取った。
自然科学の魅力を高校生に伝える、初等中等教育の理科教師、 大人の、
子供たちに期待をかけ信じる役割の大きさと
高校生たちのポテンシャルの高さに感動が止まない。

一方でかつて、小学校における理数系教育の、崩壊にも似た現象を聞いた「事件」が
私の使命感の発端であるのではないか、と、回想した。

小学校理科の現状(10年前)は?(日本)

ある県の中学・高校教員の採用試験を目指していた10年前、
高校での教育実習を終えて大学に戻る間際、「小学理科教師を目指す気はないか」と
中学校時代の数学の恩師に請われた。
初等教育の現場で教員の数とその資質が 長い間、厳しい状況にあるというのである。

小学校理科の実験でのひとつのエピソード。
乾電池が並列接続、直列接続された電球のどちらが 明るく輝くか、という単元で
それは起こった。

通常、乾電池を直列につないだ電球が明るく輝くはずである。
しかし、あるグループでは、並列のつないだものの方が明るくなった。

教師はそれが何故起こったのか、現象から理由を説明することが全くできず、
教室は混乱したそうである。

私なりに2点の問題点を指摘した。
・予備実験をせず、指導書通りに実験を行ったこと
・理科(自然科学)の専門教育を受けていない理科教師の資質の問題
 (なぜ? その現象が起こったか、本質を見いだせなかった)

原因は、 乾電池の寿命によって、起電力が弱まっていたために
並列つなぎで、安定した(寿命の長い)電球の輝きが得られた、
ということのようである。

私に理科教員の道を導いた、この中学数学の恩師は
地元で中学校の校長までされていて、この3月に退職された。

終業式前のギリギリのタイミングで、急に思い立ち、
小中学校での理数系教育の現状をヒアリングに伺ってきたのだが
学力向上以前に、(私の田舎であっても)地域の教育力が落ちて
個人主義に陥ってしまい、文理を問わず「自分の世界」と関係のない学問から
離れていくといった知離れが進んでいるようだった。

県指定の「学力向上プロジェクト校」を進めていた矢先だったが
結局は、知識だけでなく「対話力の向上」を指向し、
新聞記事や書籍をもとにした生徒間での対話と学びを全面に打ち出した
能動的学習に取り組まれていたのである。


大学に何ができるのか

大学リメディアル教育の現場で、初年次大学生の生物・化学的知識を補うにあたって
学習指導要領の変化だけでなく、実際の授業を見にいかねばと
一昨年から、高校への生物・化学授業の見学を始めている。

私立大学の入試制度で入る学生は、一般に、学校長推薦入試やAO入試で
入学をする割合が多い。保健系の領域で考えれば、
・化学的な知識を一部必要とする、生理学などの医学科目
・物理学の知識が必須である、運動学などの専門科目
などの学びに支障を来たす恐れがあり、かつ
中退者・進路変更者を生み出す遠因となっているため
大学改革と一体的に見る必要性を感じて行動する必要性が、ここに見出せる。

特に私大と、小中高の理科問題との接続・連携には、
切実な危機感が芽生えるべきなのであるが、どうであろうか。

文系出身の学生(一般市民と考えてよい)に理数系の知識と考え方を伝える、
という意味で理科教育・科学教育・教育学の意義や役割がある。
かつて修士時代に学んだ「理科教育学」「教育社会学」に、
現場の実践を通して再会したことは
偶然か必然か、この数か月は驚きと再発見の連続であり、
「気づいた者」の責任を背負い、行動するための原動力になっている。

参考:

1. 理科の「教科担任制」、小学校でも約3割に。小学校教員の6割以上が「理科が苦手」!?(Benesse, 2012.2.27)

※一部は、教育誌に投稿準備中。
 

2012/10/24

学生に求める能力、教師に求められる能力


Literacy mountain / dougbelshaw


 「機能別分化」とも呼ばれる大学の役割は、
研究か教育か、地域に根差すかグローバルか、
といった観点から いくつかの類型が提案されている。

アメリカのように
コミュニティ・カレッジが門戸を広く学習機会を保障・保証し
自立した成人を世に送り出すような、大学像が求められているのかもしれない。

また、高等学校までの初等中等教育(第一、第二段階の教育)からの接続として
小中高大の連携に真剣に取り組む「覚悟」が、すべての学校種の教師に求められる。

学生に力をつけさせるために必要な教育の在り様について、
私たちは、現場の声を社会に広く訴える必要もあろう。

ティーチング・マシンやCAIの出現の時期に、沼野一男さんという
教育工学者が情報化社会と教師の仕事(1986年、国土社)に 述べている。
(参考:KogoLab 沼野一男『情報化社会と教師の仕事』
26年後の今も、決して色あせてはいない。
・・・子どもたちのために学校や教師は何をしなければならないのか。 この問いは、一人ひとりの教師がその教育観あるいは人間観に基づいて答えるべき問いである。しかし、その答は単なる理想や新年の表明であってはならない。少なくとも子どもたちの学習指導に意欲を持ち、そのための努力を惜しまない多くの教師に、現実に期待できるもので なければならないだろう。
同時期に、学生に求める能力は「読み書き問う力」と定義づけされており
これは、主体的・能動的な学修のための力でもある。

学生のポテンシャルをできうる限りの愛情によって期待し、その学習効果を確認し、
確かな力を持たせて卒業させ、卒後の活躍を支援するために
(偶然ではなく)意図的に、仕掛け・仕組みを配置していきたい。